2010年 1月16日
「熟塾」さんというところの企画で、緒方洪庵についてお話を聴く会に参加。
芝先生は「適塾」に関する資料を現在研究中で、膨大な書物を緒方洪庵が翻訳し
現在でも使用されている言葉・・・日本に無かった「健康」という熟語をはじめ、
たくさんの言葉をつくったお話など。
当時の大阪がどれほど自由で活気に溢れていたか・・・洪庵が江戸を嫌って、
晩年に幕府に請われて江戸へ赴任するにあたって、これで自分は終わりだというような
深い嘆き・・・立身出世を願うものならホイホイ行くであろうが・・・をしたためている。
また、福沢諭吉との師弟を越えた交流のお話では、諭吉が伝染病にかかり臥せっている自宅へ
毎日洪庵が見舞って、
もし自分が薬を処方すると、自分の息子のように大切に思うあまり判断を誤ってしまうので、
知人によくよく頼んで処方してもらうとまで言ったそうな。
大大阪というが、本当に気概に満ちた志と情に溢れた時代だったんですね。
↑600名以上に及ぶ適塾入門者の名簿には、近代日本を作った方の名が沢山。
福沢諭吉の自筆署名のページを撮影させていただきました。
「銅座」の跡。
ほぼ向かいが、除痘館跡で今は緒方ビルとなっています。
上の階に「除痘記念館」が作られていて、年表や貴重な資料が保管されてます。
漫画家・手塚治虫先生の曽祖父である手塚良庵(良仙)という方も、適塾で学んだそうです。
適熟にて、芝先生による解説で大勢の門下生のものすごい勉強の様子を聴く。
塾生のひしめき合いながら勉強・・・これ以上の勉強をしろといってもとても出来ないと
福沢諭吉が書き残しているそうだ。
1階から女中部屋、女中部屋から屋根へ続く階段の絶壁のような勾配は怖かった!!
スペース確保もあったでしょうが、風紀上の問題もあったのかもね。